■異文化発見 外国人の日本観  

下記はドラゴ・ウヌク先生のエッセー "A Linguist came from a small country, Slovenia "「スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン」をCPC編集者が試訳したものです。

 これからこのコラムである小雑誌に寄稿してもらった外国人の日本印象記を、書斎でなく机の要らない移動先でも気軽にできる携帯メールで翻訳を試みたい。
 これはある種の実験である。

 
 スロヴェニアのマリボ-ル大学教育学部スロヴェニア語スロヴェニア文学講師のドラゴ・ウヌク氏は、
JSPS(日本国際交流基金学術研究助成)在外研究員後期博士課程の助成を受けて1年間京都大学大学院人間環境学研究科三谷教授の指導の下で言語学研究をするため、200512月に来日。この日本印象記はある研究者の紹介を得て彼の京都滞在中に4回に渡って書かれたものだ。ドラゴ・ウヌク氏はすでに研究期間を終え帰国している。1 人のヨーロッパの小国の学者が母国語でない英語でしかもアジアの東端の初めて出会った国・日本を描く、これはクロスカルチュラルアスペクトにぴったりのテーマだ。発想、ものの捉え方と感じ方、言語感覚や外国語に現れる母国語など類似と相違が読み取れるはずである。どれくらいの長さになるか分からないが、ともかく始めてみよう。その前にスロヴェニア国を拙い知識で一瞥。スロヴェニア国は中欧に位置し、旧ユーゴスラビアから199012月に独立した新しい国で北はアルプスの南麓、オーストリア、北東はハンガリー、西はイタリア、南東はクロアチア、そして南はアドリア海に接する人口約200万のカトリックの国。トレッド湖、鍾乳洞、中世の教会など歴史的な遺産の多い風光明媚なところ。首都はリュブリャナ(人口26万人。地震も多いらしい。写真はリュブリャナ城)。言語は西スラブ語に属するスロヴェニア語(複数形の他に双数の概念もある)。登山・スキーの観光産業と農業だが繊維、電気機器、機械、自動車産業も発達していてGDPも高く最近EU(2004)にも仲間入り。その歴史は被支配の歴史だ。国民はドイツ的影響を受け継ぎ勤勉。人口の割には文献学・文学・詩などの分野の学者を輩出。勿論有名サッカー選手なども輩出している。日本のそばと同じ食材のパンがあるらしい。ドラゴンは縁起が良いと言って店先などに飾られているとはテレビの受け入れ。筆者は行ったことがないので詳しいことは分からない。スロヴェニアについては2006618日付筆者のコラムを読めば多少参考になるかも知れない。

追記。筆者は今言語学者・チェコ語学者、千野栄一の『言語学フォエバー』を読んでいるが、その中でスロヴェニアについて書かれた面白い文章に出くわした。スロヴェニアでは狭い国土にもかかわらず方言が結構あって、北と南とでは言葉が通じないと驚いていた。やはり山岳地帯と海岸沿いの地域では地理的地政学的条件が違うからか ? 日本でも東北地方の北端、青森の津軽弁と九州地方の南端、鹿児島弁とでは"通訳"がいないとお互いに意思疎通が出来難いと言われている。それも近年マスコミの発達で薄れてきて標準語化しているが。

                        スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン

 私はずいぶんと若かったのだ。その時は自分が物事は目に見えるように存在するのでもなく、現前することでもないことに気づき始めた頃は・・・。15年前に独立し今日までヨーロッパでは全く謎の国のままでごく普通の意識レベルでもほとんど知られていない、そんな国土の面積が2万平方キロメートルで人口が200万人もいない、所謂ヨーロッパのポケットからきた外国人の目で実体を観察すること、それは日本と日本人とはいかに違うだろうか。どこで自分の研究をすべきか決断しなければならなかった時にまず最初アメリカについて考えたが、可能性と期待の点で熟考した後、日本へと自分の見方を変えたのだ。ほんの一瞬で最終結論に達した。決定的なことは、リーダー的な研究と世界の発展的力としての日本の役割である。感性と資質にまですべての矢は“了解”を指していたけれども、自分がやってきている環境は、とても普通ではないような選択だと理解したのだ。確かに関心は大きかったが、自分自身としては人生上意義深い変化を差し出したつもりだった。私たちの文化は日本について本当にステレオタイプ化している。日本は将来も発展する国であり、また歴史のある国と基本的に見られているのだ。また、一方では上品さは充分にあるし、リーダー的な経済と西欧世界の重要な要求に対する適応もある国と基本的にみられているのだ。私が受ける最近の日本のイメージは、伝統的な建築、芸者それに俳句の統合された情報のモザイクである。それは平均的な西欧人がテレビやインターネットを通じて受けるイメージだ。放送によって精神活動を拡げているのだ。こんな妨げられたイメージに応えたくないと思っていたので、私はガイドブックから実用的な情報を得、自分が実際に降りる場所を知ろうとしたのだ。そう、1年は環境充足情報として内部情報や過程情報を取得するには時間はたっぷりあるのだ。私は期待していたことを最初に掴んだ。飛行中ずっと起きていたにもかかわらず、太陽が日本の上を昇って近づくにつれて私の視野に日本の海岸、船や関西国際空港が入ってきた。やがてだんだん近くなってきた。新しい日が明けるにつれて私は微笑みながら思った。「そうだ、自分がまさにしばらく住もうとする国のロマンチックな考えが現実なりそうなのだと」。日本は遠いかも知れないが、私たちの文化がつくられたような違いや頑固さを信じるべきか。いみじくも空港での規則正しさを見ることで私は次の日たくさん出会うことを知ってしまったのだ。つまり、日本人は例外的に親切であること、依存性が高いことそれに有能であることなどである。 私は12cm位積雪のあった冬のただ中のスロヴェニアを後にした。だから冬の服装で着飾って着いたため汗をかいてしまった。(ハンドブックのアドバイスに従ってそうしたのだが)。日本は秋の気温だった。「この暖かな気候は本当に魅力的だね」とは私の心を横切る言葉だ。私は電車の窓の風景を讃えた。新しい住まいは京都市左京区の京都大学国際交流会館だ。ヨーロッパを旅行した経験では、学生は絶対に贅沢さからは縁遠いことを認めなければならない。アパートのインテリアは古く擦り減っているし、技術的な問題の断り書きは何もないのだ。「留学生用にコンピュータルームとADSLの回線はあります」とね。しかしながら私が期待したのは、自分の所属する学部の提供すべき理想的な研究環境だ。次の日から冬が来るが、セントラルヒーティングもないしスロヴェニアで使っていたものまでないのだ。暖房器具は動かないので私は電気ヒーターと余っている毛布を補助用に受け取った。外は風があり骨まで凍みる寒さのため、それらを使っても十分には役立っていないのだ。暖かな気候は今どこに?街を散歩すると、いろんなものが見える。ものは大変近くにあってしかも豊富だ。しかし目に入る些細な問題もある。森ではなく木々を眺めるのはいつも最良だ。他の道を回って、ということは京都を散策すると少しずつ分かってくる。と同時に、実際に自分がいるところのイメージが掴めるようになるのだ。もちろんビルが一番目に入る。古く伝統的なものが残っていて街に溶け込んでいる。他方、現代の建造物もあってそれは二つに分けられる。低い民家と高いビル(註。唖然とするが京都には高層ビルはないようだ)は、私が見たところでは、高低差のあるビルとの興味深い相関関係を指摘できると思う。それは街をとても生き生きとさせているのだ。遊歩道はヨーロッパよりも広く路地は狭い。そこには多くの民家が立ち並んでいる。さらにビルの形は機能
面を重視した箱形になっているのだ。
京都郊外には大きな森が広がっている。私は晩秋の木の葉やさらにすばらしい色彩に驚かされた。明るい黄色からボルドー赤色に広がっているのだ。私は多少慎重な性格なため、一番近いところを探索することが専らの関心事だ。民家が真ん中にある街の外れに住んでいることが嬉しいのだ。その民家は繋がっていて路地が家のまわりに広がっている。植木鉢や庭に花が咲いていて緑がたくさんあるのだ。本当に故郷みたいだ。晴れた日には特に自分のまわりをさらに探索するのが楽しい。驚くほどの店(花屋、クリーニング屋、小さな食堂、魚市場、文房具屋と宝石店)もまわりにはあるのだ。京都に住んでいる人は自営業の人が多いので、サービスは収入の主な源泉である。そんな隣近所は一団になり自己充足的な集団のようだ。だから学校から薬局まですべてあるのだ。そんな集団でいくら稼げるかあるいは店の儲けはいくらか興味がある。半マイル(1マイルは約1.6キロ)毎に流行っている食べ物屋があるようだ(24軒中7)。だからデパートは自分の町にある数より数が少ないし、店で浮かれている群れにも出くわしたことがない。多分外国人なら誰でもそうだが英字紙やヨーロッパのタバコ屋がないと寂しいと思う。自販機や自動飲料機はあるのだ。執拗に固執するなら、喫煙道具を置いてある店を見つけられる。幸いにも私は英字紙のジャパンタイムズが読める。テレビを見ないので満足である。
 日本人はとても善良な隣人だと指摘されている。手助けする方法や情報の自由なやり取りを見つけだす力が備わっている。もっとも日本人の多くは英語を話せないし私は日本語を話せないが。西欧人は日本人を厳格でとても真面目な国民と見ている。笑わない時などまるで怒っているかのように私たちには映るのだが、それは西欧人の心にある一枚の絵と同じだ。強調しなければならないのは、こんな親しみやすい人々には以前には会ったこともないし、私のような見知らぬ外国人に親しくするだけではなく他の人にも同じようにするのだ。私には親切丁寧な決まり切った態度に見受けられるのだ。特別でユニークな会話の形式があるのを理解するために言語をマスターする必要はない。外国人であるにもかかわらず、どんなところでも余計な感情を持ったことはなかったし、この点に対しては会った誰もが歓迎してくれた。私が上陸して触れた文化のもうひとつの面は清潔さだ。「まずは清潔にすること」となるとヨーロッパのどこにもそんな学者ぶった文句を私は見たことがなかったのだ。通りを家をそして全体的な環境を清潔に保つことは日常生活の主要な面だ。そういう空気の中にひとつの意味があるのだ。いかにして人は自分自身や他人を敬うか考えさせてくれるのだ。 外国人にとってすごく重要なことが交通ルールにある。それは独特なものだからだ。日本に着いてすぐにタクシーに乗った時に、新しい交通ルールとあわせるために多少時間がかかった。タクシーの運転手は右側に座っていたが、時差ボケで小銭を落としてしまったのだ。同じようなことがイギリスの交通ルールでも起きた。そう、結局違いに気付いたあとだが普通のことだ。しかしながらこの地点に達するまでに例えば道路を横断するような小さな出会い方の場合には、間違って別の側などでバスを待っていてもルールに従うことを優先させた方がいい。幸いにも私はここでは今尚ハンドルを握っていない。基本的なところは(標識や灯り)スロヴェニアのと同じだ。遊歩道も全ての大都市と同じように見える。道幅や大きさも同じでそれにそのサイドのビルも大変よく似ているのだ。他方少し問題もある。それは言葉の問題だ。標識はほとんど日本語で書かれているし、しかもたくさんあるので、道路や通りの名前もラテン文字で書かれているという事実を簡単に見過ごしてしまうのだ。数えることができない標識は私には広告とは思えない。私は基本的にはそれらを見ても影響を受けないのだ。なぜなら漢字、ひらがなやカタカナになると読めないからだ。それでも私は書き方には大変美しさがあり心を打つものだと分かる。
 私は舗道を歩くと嬉しくなるのだ。メイン通りはすっかり舗装されているが、私が驚いたのは道路でさえ平坦で表面がきれいにできているということだ。人が一杯いたり交通渋滞がないからストレスも怒りも感じない。ここの交通量は人口10万人位の故郷の町の交通量よりずっと少ないという妙な感情に私は捉われている。こんなことがいかにして可能なのか?私が期待していた通り、多くの地元生産の車を見かけた。あちこちでプジョーも見かけた、多分ベンツも見かけたがそれまでだ。私はある時から日本車が好きになっていた。だから間近で見られる機会ができてうれしいのだ。ちょっと驚いたのは新しくよく手入れされた乗り物をたくさん見かけることだ。5年位前だったか学部の同僚と私は本部の前に駐車していた小さな一人乗りの日本車を褒めた。その車は形といい機能性といい誰もが納得していた。それは私たちが見慣れていないものだった。「しかしここにはそういう車がたくさんある」と笑い飛ばすように自分に言い聞かせた。34社の自動車メーカーが優勢のようだ。マツダ製の車は日本でさえ価格が高いように思える。日本で私はとても尋常ではない色を見つけた。それは黒、白とグレー以外の色は存在しないということだ。誰かが私に尋ねたとしたら明るい色は存在しないと応えるだろう。マツダの車がとても生き生きした色と奇抜さのコンビネーションでヨーロッパ市場を驚かせたことを考えてかなりショックを受けている。現在までいろいろと見てきたので、私は追突された車またはそうではなくとも傷つけられた車を見ても驚かないのだ。そんなことはよくあることだし、自分の町で楽しい経験ではないがあったのだ。特にスーパーマーケットに車で行ったときなどに。私は日本人は忍耐強く教養があって親切丁寧な人たちとの印象を受けた。私はさらに日本の数多くのバイクやスクーターを見られることを期待していた。速度があって頑丈な日本のバイクというイメージを好んでいたからだ。ラッキーなことにもうひとつは、この辺にはそういったバイクがそう多く見かけないことだ。言わせてもらえば古い。あまり楽しい印象をもっていないが、最初2人のバイクの運転手に巻き込まれた。ここのキャンパスで会った学生にとってはバイクは最も適当な交通手段だが、彼らの運転は攻撃的に思える。ともかくも誰も怪我や暴力は起きていないようだ。少し驚くかも知れないが。バスもまた、交通手段の実用的な手段である。頼りがいがあって安く実用的だ。時間通りに来ないことで不快感を表す多くの人を見つけるけれども、私は個人的には見て回るのにはバスを利用するのが好きだ。バス乗車券の払い方が分かった後は結局その方を好んだ。外国人は目新しものには何か特別なものと考えるが、適応能力がバッチリなときは彼らはその国の人がしている仕方を受け入れる。少なくとも私はそう期待する。
 よく言われることだが、あまり善良過ぎるほど良くないものはないのだ。もっと正確に言うと、かつて経験したことがなかったことを書かなければならない。悲しいことだ。2日前信号が変わるのを待って横断歩道に立っていた。1人の男性と幼い子供が私の近くに立っていてその子供が私を見て顔を逸らした。父親がそのことに気づいて手を引っ張り衝動的に何か説明し始めた。その位の年齢の子供は変でしかも外国のものや人に本当に興味があることを分かっているのだ。その子供は私をじっと見つめていた。外国人が目の前にいるということの忠告や事実をその子供がどう知るか、私にはどうにもしてあげられなかった。父親はそういうことを子供に話しかけていたと思う。これは推測だが、父親が自分の息子の腕をとても強く掴んだ後からその場の雰囲気がますます悪くなったのだ。苦い経験だったね。また、最近京都で起きた子どもの殺人事件についての日刊紙の論評や記事もある。過去何週間か経験していたので知っているが、日本のファミリーは子供に特に気をつける傾向があるのだ。子供の暴力的な死亡統計は年間30人まで上昇し大変問題になっていることも理解できる。交通事故で年間平均30人が死亡している国(人口200万人以下の国)から来ているが、同時に出生率はヨーロッパで最低なのである。私はこの話題の新聞記事をざっと読んだ。違った分野の専門家は説明やら解決策を絶えず研究している。問題は説明するのが本当にむつかしいのだ。子どもは依存性が高く社会の一番弱い構成員ないし連携であるが、社会が伝統的であればあるほど、脆い子どもたちに手を掛けることに集中するのだ。現代社会もまた、矛盾した現象をよく一般化してしまう。例えば、子どもに対する性的暴力、まわりにいる恐ろしい殺人者、子供や大人の拷問などだ。これらの殺人事件は意外な関心を呼んでいてさらに悲しませる。裁判の記事は新聞から得られるので、刑事被告人は主に大人の男性だが、その中で唯一おかしな外国人が目立っている。その外国人は殺人の烙印を押すのを可能にしてしまうような愚かなキャンペーンを張られている(テレビの記者のせいや新聞報道通りでは)。事実は犯罪者全員が精神的なもので不安定なものなのだ。だからある種の疑問は公開しなければならない。この恐怖の理由は何であるか、何で防げるか、そして絶対に止めさせられるかということを公開しなければならない。大人と比べると子どもは無力だと認めて子どもの話題を始めた。一方では単なる傍観者である誰かの思想のように従おうとすれば、読者を満足させられないだろう。日本はコミックの熱狂ぶりでは世界的に知られているのだ。若者だけではなく大人もレストラン、店や書店などで大概どこでもコミックを読んでいる。これらのコミックにはある種の強調された女性のキャラクターが描かれていて外見はとても子どもっぽいが、性的な内容が重要な役割を演じているのだ。男性のキャラクターは女性のとは性的行動は違って描かれている。多くは従属的で利用されているようだが、暴力が背後にあるようだ。さらに女性のキャラクターはすべて子どものように見える(性的であることが例外だと分かるのは、書店の前や中で見られるのだが、コミックがある特別な区切りの場所や最初にカバーがビジュアル的かでどの作家の内容かが分かるところ)。しかしながら、読者の仲間がむしろ限定されていることやコミックが紐で縛られている事実はこの際考慮しておこう。大人がもっぱらコミックを購入し、性的フラストレーションを追いやる生活のある種の手段として使っていると理解される。このようなことはヨーロッパでは不可能だろう。ヨーロッパの社会は性的暴力などに対して子どもを守るには熱心で同時に、性的倒錯者に対して探索が行われているのだ。性、暴力と子どもという考えは共通の分母ではないのだ。日本のコミックで重要なことがある。描かれたキャラクターは子どもの外見だが、性的にも精神的にもトラウマを持っていてそのメッセージは次のようなものだ。彼らは自からを守れない。どんな社会にでも潜んでいる病んだ性的倒錯者はいる。そんなコミックの背景的なメッセージをどう解釈するかを書くときには長く特別な章を費やさなければならない。ジャパンタイムズのコミックでさえ考えさせられる。そのコミックは男性の大方はいかに女性を理解するか、私たちはいかに全ての女生徒、アニメプリンセスや控え目な芸者になるかなどを特集している。
 私は外国人だからそうしているが、普段見ているものや見られないものを観察している。日本人は本当にとても礼儀正しい。日本来て1ヶ月以上になるが、最初のコラムで言ったことについては今尚変わっていない。たとえ受け入れ国の代表に巻き込まれた毎日の出会いが何であろうともだ。毎日と言えば、だんだんと単調になってきている。私でさえ分かることは、この国の人口が最近12800万人になり、その中で1年間たっぷり過ごす自分自身も外国人としてこの数字に含まれているということだ。
 気温が上がった。だから私のアパートの気温も上がった。ちょっと皮肉的に言えば、暖かい空気が私の部屋に入ってきたのだ。私の部屋の気温を追いやって。しかし私はセントラルヒーティングには今尚ちょっと不幸せになる。一生懸命やっても、セントラルヒーティングは機能しないということの事実を変えられないのだ。これがいつも寒さを感じる理由なのだ。いろいろと日本のものに慣れてきたが、未だに本来の問題の解決がどうして働かないのか私には不思議に思えてならない(私たちは外国人だから)。ヨーロッパで使っているセントラルヒーティングは故障するだろうか?私は電気毛布を与えられたが、こうして一人ではもはや眠れない。ここで過ごす他のヨーロッパ人が同じことで文句を言っていることを私はよく読んでいる。現在私にはこの“ヒーティングコンパニオン”がいるけれども、それは私が寒さで身震いすることが更に少なくなっていることではないのだ。

前回私のコラムで日本についてのうわべの知識について書いた。しかし、はっきりしていることは日本が、人生でまさに現在的で日本人は期待した以上というヨーロッパ人を思わせる。敬うことそしてそれを実際に経験してみると、読んだり聞いたりしたこととは何と大きな隔たりがあることか指摘できる。個人的には私は日本を頼りにしているのだ。読者は私を寒がりの人とのイメージを持ったかも知れない。自己防御の点で言えば、1946年来最大の寒波が日本にやって来たことは"ラッキー”だった。ある地域では3m67cm以上の積雪、そして凍死の絶えざるニュースもある。そんな時家の人たちはe-mailでどう対処するのか尋ねてくるのだ。不幸にもこの冬は例外で日本の一部の地域ではひどかった。私がよっぽど幸運だったのは、まさにその地域、もっと正確に言うと、札幌に22日ばかり訪ねようとしたことだ。そこでは本当の自分自身を見られる機会がある。新しい環境で自分自信を発見すると、ひとは新しい環境には慣れるはずだ。ある種の習慣や期待が取れ新しいものを取り入れるはずなのだ。まずは、既得の習慣のシステムを全く破壊して意味を短期間には理解できなくすることだ。他方は、更に時間と闘いが要求される。この二つの局面の間に捕られて自分自身を発見すると、読者はある砂漠の中に固定化された感じになる・・・。どうして、どうして、これは私に起こったことなのだ。自由な時間と実際に過ごせる多くの可能性をもたらしてくれる数えきれない休日と祭日をちょうど経験したのだ。否、11月にジャズが知らせてくれることやクリスマスが近づいていることにちょうど私は慣れてきている・・・。ここ日本ではそれははっきりと違った調べだ。私は“メリークリスマス”の看板を日本の伝統の、ある種のヨーロッパスタイルの侵入だとは見なさないし、さらに全体的な言語学的な構築には内容の欠落ないし思想的空虚さがあるとは思わない。問題はクリスマスを祝福することだけである(英語圏の社会でさえその言葉の繋がりの最初の象徴的な意味を忘れてきているので、休日を全く違ったものとして見なしていないのだ)。だから看板は目立つし書き方が違っているため、ある種の飾り付けや商業的なポスターは大変似ているようだ。すべてを棚上げにすれば、クリスマスの花輪を買ってそれをドアにかけるのは素敵だった(キリスト教より遥か以前が起源のシンボルだが誰も気に掛けているようには思えない)。もっとも自分たちのウインドウに普通に飾る店主より私とは全体的に何か違っていた。滑稽に聞こえるかも知れないが、私はクリスマスが同じようにはアジアに引き継がれて決していないと思ったのだ。

 ある日私は児童たちが演奏する音楽会に出席した。それはショッピングセンターの前にステージが作られたものだ。凍てついていたが(そう、すでに何度も書いた)、彼らの音楽はすごく楽しかったし出席していた人たちはその演奏に圧倒されていたので、指揮している先生はコンサート終了を完全に説明しなければならなかったほどだった。少し寒くて震えていた学生服姿の児童たちは立ち去るときにはとても幸せそうだった。この音楽会で私は社会主義時代の子どものときを思い出した。しかし他の出席者全員が自分たちの子ども時代について更にノスタルジックになっていたように思えた。少なくとも私はそう推測する。
話題を新年に戻そう。飾り付けはあまり自然なのですぐに目に留まらなかった(人間の目は普通チカチカしているものに反応することに特に慣れているならば)。しかし注意深く探し始めたあとにその飾り付けは、ひょいっと現れた。どこかにあると期待していたが。私には目新しいものだということは事実だ。だけど、言われているように新年は最も重要な祭日として見なされているのだから、飾り付けそれ自体の外観、作られた材質やその感じ方を考えれば、本来家庭的なものである。最も大きな通りだけは飾り付けられて、一方郊外には何もないのだ。これも大きな驚きだ。期待はもちろん私には重要なものだが、それは心から沸き上がって来るものだし、また育つものだ。だから一人の外国人にとっては以前に経験したことと結び付けることを期待する新しいものはない。更に、私は祭日(正月休み)の前日(大晦日)のはしゃぎ振りや歳暮の浮かれ騒ぎにはまったく気付かなかった。全ては違った調子、違った方法で起こっているのだ。静かに気付かれずにそして慎み深くだ。私は後に真夜中過ぎに分かったが、何か日本特有のものだ。
 学生が一番身近くで親愛なる人に用意するクリスマスパーティー(私を含めた多くの住人は数千マイル離れている)には出席しなかったので、いわゆるメインストリートで新年を迎えることに決めた。私たちヨーロッパ人は都市には広場があり、古い街に置かれて都市の広場の中心を表しているとみなしている。もちろん京都は広場ばかりではなく横断歩道もあるが、都市の古い街はつとに有名である。
 そう、少し忙しい時間から解放されたあと、飾りものが全然ない喫茶店で日本人が新年をどう迎えるのか掴みたかった。結局実際は各々別々に祝っていると結論づけながら、私はメインストリートに集まっていた群衆に混じっていた。充分に楽しんだあと私は何か新しいものを用意した。外で新年を迎える初めての時だった。表現するのがむつかしい。「フレー、ここ!」群衆の真ん中で打ちのめされていると、同時に私も気が動転して何も言えない。私の頭はみんなの上で高く居座ったままだった。私が立ったまま何かするかどうか多くの人も興味津々だった・・・。伝統的な衣服を纏った三人の女性の後ろに立っていた。人生一度の経験の準備をしていた。私はまた間違っていたのだ。女性たちはタバコを取り出し携帯電話で少しショートメールを交換してから寮へ戻って行った。新年のお祝いのロマンチックなところは、予期せぬところでおじゃんになってしまったのだ。私は止まって最後のカウントダウンが始まる人々やバンバンと音を鳴らし始める爆竹や夜空を明るくする花火を待ち望んでいたけれども、沈黙以外に何もなかったのだ。誰もが初詣の気分に変わって静かに話しながら待っていた。世界に2006年の新年が明ける直前、約10人位が静かにカウントダウンを始めた。ほとんど呟いているような声で、である。彼らがしていなかったならば、実際に世界のこの地では2005年が終わったか知らなかっただろう。無礼を避けるため先に手袋を動かし人々と握手して最善を祈ったが不要だった。誰もそうしていなかった。少し経ってから一人の女性の声が初詣をする場所から響き渡った。最初私は誰かが新年おめでとうと群衆に向かって祈っていると思っていた。また間違ったのだ。後になってはっきりと分かるにつれて、その声は多分初詣の案内の声だったかも知れない。

 お金。不幸な環境に負うところがあるが、私は自分の誕生日にお金を持たないままだった(「不幸な」という言葉は自分の誕生日が元旦のあとすぐだという事実とは関係ない)。大雑把に言えば、外国人には日本語で書いてあるものが読めないのは実用的ではないのだ。だから地方の銀行の入口に貼ってある貼り紙が解らなかった。その貼り紙には自動現金支払機は止まっていて4日まで動かないと書いてあった。私は自動現金支払機は使えると思ったのだ。仕事上開いている銀行次第では使えることを知らなかったのだ。ヨーロッパ人は所謂「プラスチックなお金」 を運用する複雑化した大量貨幣システムは、日本人よる発明だと考えがちだ。また間違ったのだ!休日にもしお金がなくて手に入らなければ、外国人にとっては決定的だ。私は滞在中に知り合った学生に頼みこんで自分の窮状を話した。黙って2日間位過ごせるお金を貸してくれた。期待してなかったが大変な親切に与ったのだ。お金に対しては全体的に大変上品のようだ。初めは金銭の授受の仕草に私は大いに驚き、また、ちょっと戸惑ったりした。うん、人は絶えざる基本から学ぶのだ・・・。お金の豊富さでいかにオランダとドイツ(逆に国家と比例して)にトラブルをもたらしているか驚いているときに、ここでは単純にいかにお金のことを"排除する"かが分かってまた、驚いている。他のすべてが存在するとき、お金と関係する物は大変実用的に規定されていて外国人でさえ即座に受け入れることができる。私がよく感じることは、物の対処の方法を深く考える必要はないということだ。というのは、すべてはできるだけ楽観的に扱われているからだ。(前編終了)

 ある語学雑誌の最新号にドミニク・チータムというイギリス人のコラムが最近の異文化体験を端的に語っていて面白い。このイギリス人は合気道に興味を持って日本に来たが、街を歩いていると合気道をやっている人は細長いバックを持っているので一目で分るが、しかも武道は流行っていないと聞いていたのに、新宿あたりでやたらとその光景を見かけるので不思議に思っていたら、イギリスでは主要なスポーツでないゴルフ、そのバックを持ち歩く光景だったことに驚いたと書いている。また、道路の両側にある溝、バスでいくスキーヤーなどそれなりに知識はあったものの、事実を聞いて勘違いと分った。どちらかと言えば知識が中途半端で偏っていたせいでと反省するが、逆に日本人はイギリス人なら誰でもサッカー好きと思われているようだが、私はまるっきりサッカーには興味がないとも言ってその勘違い振りを指摘している。だが、この比較的若い方に属するイギリス人は、誤解と勘違いをして良かったとし、とんでもない勘違いもあったほうが少しぐらいはいい、そのほうがその国の人たちのことを知るのがはるかに楽しくなると結論づけている。その最後の2行の原文は下記の通り(NHK「ビジネス英語」8月号P.123より)

 But then again, having listed misunderstandings and misconceptions, let me say that I am glad that I had them. Learning about a country, or the people of a country, is so much more fun with a few mad misunderstandings that it would be without them.

 筆者は小雑誌に掲載された「スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン」(原題: A linguist came from a small country, Slovenia. 註。タイトル名は編集者)の前編を翻訳したいま、上記のイギリス人の言葉の含蓄さを改めて噛みしめている。ほとんど通勤、出張時の移動の電車の中での翻訳だったが、エッセーということもあって専門用語が出て来ない分助かったが、やはり外国語としての英語を理解した上での日本語訳ははたして充分果たせたか、自分たちの国、日本をきちっと認識しているかなど疑問点やら再認識やらが頭を過ぎったことは確かだ。勘違いなどあれば見つけ次第訂正していくつもり。これも良い経験なのだ(2007715)

 今岩波書店編集部編『翻訳家の仕事』を読んでいる。岩波書店のPR雑誌『図書』に「だから翻訳はおもしろい」という題で2003年から2006年まで連載されたもの。37名の翻訳家がエッセーを書いている。ここには翻訳のエッセンスがある。まだ40ページ足らずだがおもしろい。繰り返し読んでもいい。複数の言語、複数の目、そして共通する日本語の思い、翻訳は創作なり、その道程の苦しみと完成時の充実感が行間からよく伝わってくる。英米文学者の若林正氏が紹介していた柳瀬尚紀著『翻訳困りっ話』(河出文庫)は筆者も読みたいと思って捜していた本。筆者は翻訳の難しさを実践中なのだ。
 というわけで『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』後編の始まりである。2月〜3月の京都の風情を外国人の眼で活写している。

古い町の通りを散歩しているときに、私は自然科学者と人文学者の間に日常生活で反芻する仕方がいかに違うかを考えた。また、動詞的思考と非動詞的思考がいかに重要か、教育を受け絵文字あるいは図像的な書き言葉を通じて形成された人をどのように考えたらよいか、考えてみて下さい。日本語が読めたなら、私の考え方が違っていただろうか。
 店と買物。日本では休日後の時間もセール時間だ。外国人としてはショッピングセンターを認めるには多少問題があるようだ。私は文字が読めない。他の違った店への案内標識がある
1階には宝石店が並んでいる。特別な階には何を見つけるべきか、そうそう、日本語だ。主なショッピングセンターは市の中心部にある。京都は大都会だが、故郷で慣れていたような混雑はないのだ。人々がショッピングセンターの周りに広がり、私たち外国人にウィンドーショッピングをしてくれるようかなりのスペースを残しているように見えた。まさにセールが始まろうとするとき瞬時にものを奪い合うため、開くドアの前で何時間も長い列を成して並ぶ、そんな光景を見たことがなかった。
 日本に来る前に警戒していたが、日本でのモノの値段には今尚驚いている。私が知っているヨーロッパのブランド品は、現在の日本のものよりずっと高価だが、自国のよりはまだ安価だ。日本は物価が高い国と言われている。私の持ってきたコートはこの気候に合わなかったので新しいものを買う必要があった。店の店員は日本のブランド品は特別だから価格はちょっと高いのだと私を説得しようとした。私が見せられたものは本当に特別にみえたことは認めてもいい。しかしそれで暖かさが保てるだろうか。
 ところで、店員は流暢な英語を話したが、以前に二度ほど店内で見かけたと言った。品揃えは価格通りの値打ちがあり、セール中には恐るべき量を売ると説明しながら店内を案内してくれた。彼女は私の望む洋服をいくつか見せてくれた。値段の範囲内で買えたし、結局丁寧に出口まで付き添ってくれた。彼女は流暢な英語を私に示そうとしたが正しくは私の優柔不断さを解らなかったと思うのだ。そうだ、ともかくコート一着を買ったのだ(もちろん日本製のをね)。期待しつつ私はコートの袖をのばしに洋服屋に持っていかなければならなかった。極端な状態で試したくなかった。なぜならクリスマス前の寒い日を今尚思い出すからだ。
 比較的若い世代はバザーでたくさんものを買うようだ(それを何と呼ぶのか)。市の中心部にある通り二つ幅の場所にはブーツ、ソックス、高い帽子や安いイアリングなどが売られている。ここは多くの歩行者で溢れていることがしばしばでヨーロッパの“corso”とよく似ている。道を散策することやウィンドーショッピングをすることもあれば、知人と出会うことを期待する場所でもあるのだ。  日本でも同じだ。若者は仲良く交際することを好む。ショッピングすることが重要なのではなく、今尚贈答品が全てなのだ。洋服の量を見て驚いたが、それはセール用に仕上げられていてしわはのばされていた。どんな流行だろうと質がなんだろうとも、ショッピングセンターでは同じだと気付いた。直に見てみよう。あるものは判らないままだ。
 日本の社会はどのような階層になっているのか考察するのはこれまた全く容易い。外国人としてそのことを実際に知るには多くの店を見て回らなければならなかった。外国人に受けるのは古い町にあるたくさんの小さな店だが、そこでは才能のきらめく秀作の手作り品を眺めたり褒めたりして午後のほとんどを過ごせるのだ。値段、そう高いが妥当な値段だと言っておこう。この辺はあまり観光客がいないので、店の客はほとんど地元の人たちだ。結論を言えば、日本人は伝統を維持しようとしているが過去から動いているようだ。店は日曜祭日も開いている。ケーキ屋はいつも一杯、女性は着物で歩き回る。これらを眺めたり褒めたりすることは我々ヨーロッパ人には確かに受けるのだ。
  喫茶店に入ったときなど若い子ども連れの家族は、私の存在に気付くと私から遠く離れて座った。しかし一日後これとはまったく違った経験をした。喫茶店の窓越しに手を振って合図をしていた子どもに、不思議にも英語で挨拶の仕方を教えられた。他の場合だが、年配のカップルととても楽しい会話をしていることに気づいた。年配のカップルは知らないと思うが、私はまさにいい日を作ってもらったのだ。普段日本人とつきあうのはとても難しい。一方で彼らは手伝うときや仕事をするときなどは大変優しいが、他方では、一般的に外国人に対しては遠慮深いのだ。
 日本で寝込むことは他のところで病気になることとまったく違わない。頭痛や鼻風邪は日本でもスロヴェニアでも退屈だ。医者を尋ねたことも興味深かった。寒い上に感冒の季節は私を容赦しなかった。医院、インテリア、従業員そして患者の関係では社会主義下の古い時代を思い出した。でもその構造はすべてここではずっと有効なのだ。医者は英語を話した。できるかぎりそうしてくれた。自分のアパートが寒いことを私が説明するのが難しかったからだろう。また、その後その医者は暖かくして過ごすようにと言ってくれたのだ。
 この独特で興味深い国を日々少しずつよく理解するようになってきているが、私は小さな子どもと同じように好奇心を今尚持ち続けている。

 長く続かない人たちや何も長く続かないことでは私は今日本に来て現在3ヶ月も経った。今尚日本人の行動が同じように見える。私はどうか。そう、はじめに言ったように、日常の基本的なところで何が立ち現われて来るか知覚できることと同様に、ある程度まで類推することで多少の変化を経験できた。ひとつは日本の伝統的な食事作法である箸の使い方を極めて早くマスターしたことだ。しかしそれだけでは終わらない。いくつか日本語の単語も覚えて薬局へ行って薬も買ったし、郵便局でなんとかすることも覚えたのだ。これら単純なことだけでも実際の現在の自分の居場所がさらに洞察できるようになったのだ。
  流されるのを防ぐには自分の考えを呼び起こさせ、自分が最初に日本に来た理由に焦点をあてることだ。日本に来た主な目的は言語学の調査と研究だ。私の国は大変狭いし人口も少ないので、世界中の研究者の大変重要な概念である、いわゆる結果を得るための必要な量=“クリティカル・マス”を提供できない。私の研究の中心分野ではまだ学者や研究者が十分に育っていないのだ。だから私は至るところで“クリティカル・マス”を見つけなければならなかった。特に私は生きた母国語を研究するような特別な分野に縛られているからだ。


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 スロヴェニア語について深く考えることはごく普通のことだが、私が赴任地として日本を選んだことは会う人みんなを驚かせている。なぜそうなのかという議論を妨げるのは時間的に無駄だろう。だからただ二点だけその理由を述べよう。まず第一点は、どの言語も一般的に言ってただ単なる現象に過ぎないということだ。それは基本言語学、言語学的普遍性などを包含し結合されている。全ては世界のあらゆる言語と共通しているのだ。第二点は、ある距離から観察する事物は、同時にまた、関係づけられたものないし正反対に似つかないものと比較できる事物なのだが、研究の中心概念と見なされた時には違って見えるのだ。例えば、様々な英語研究があるが、それらは非ネイティブスピーカーが作成したものや外国人が作成した日本の歴史についてのものだ。スラヴ語を専門とする日本人研究者はごく普通だそうだ。その一人が学位取得後研究での指導教官の三谷女史である。
私は京都大学の規則と機構にはともかく驚かされたと言わざるを得ないのだ。私は大学、学部そして渡航より前に私が尊敬している指導教官の三谷女史などの基本的な情報を収集していた。研究教育にあてがわれた学部は他と比べて大変小さい。教育関係の職員とアルバイトのアシスタント数名だ。しかし研究環境は抜群に良い。特に世界中の最新の学術専門分野の電子出版物へは自由に際限無くアクセスできるのだ。どんな研究者でも斬新なものや発見ものが出版物の中では、いかに冷酷に扱われているかを知っている。実を言うと、ここに本館と別館の二つの図書館があることには本当に驚いた。全ての洋書や和書の学術書が置いてあることは普通以上なのだが、ほとんど1世紀もの時間の隔たりをカバーしながら、世界中の言語学の論文に出くわすことは私に空気を掴ませるようなものだ。誰もが言うように「全て手に入れた」のだ。
 学術書は年齢、研究方法や成果説明などでは国際化してきた。その大部分は統一されて機能的に図式化されてきた(もちろん基本のところでだ)。それは幅広く採用され国際的に統一化されたシステムになって本当にほっとしているが、自分を虜にするような目を見張るような斬新なものもまた必要だ。例えば、学部が刊行する言語学に関する出版物―最新の専門的かつ普遍的な学術的な発見物を搭載―の情報が研究熱心な学生の目に留まることだ。それらは「斬新で大変魅力的だ」と私は思うのだ
(訳者註=ここの人間・環境学研究科文化環境学系比較文明論/共生文明学/地域文明論講座で年1回出している論集が「Dynamis ことばと文化」)。雑誌の形式と内容の充実さは褒めたいと思う。私は著者自身が編集したりデザインしたりしていることに慣れている。どんな研究者生活でも一流な考え方があるものだ。それ自身では何にもできない―。国際交流基金学術研究プログラムの職員の活躍がまさにそれだ。彼らは時間を割いてくれ、卓越した成果をもたらすような個性、成功や影響などに気に掛けないほど協力的で献身的な職業人だ。日本で働くことに対する全体的な考え方は以前に持っていた通りだった。

 私は札幌のロシア語研究会と同様に東京のスラヴ語研究会にも顔を出した。会の名称は違っているが(会の存在の議論は全く明らか)この二つの研究会には本当に垣根がないのだ。多くの一般人と同様に私もまた、多くのスラヴ語研究者に会って驚いたが、発展する研究分野の必要性からくる理由はさておき、無知なる精神に対し「エキゾチック」さやある種の文化的な環境とは無関係なことを思ったのだ。私はロシア語、ポーランド語、チェコ語などの国の研究者とは会ったがスロヴェニア語やマケドニア語の研究者には会っていない・・・。すごく親しくなるほど研究者各々の言語修得は大変上手なのには驚いた。研究の結果や発見ものの研究発表の場である会合、その大変有効的で気楽な会合が最後の部会にあった。それは新鮮だった。「なんとスラヴ的か」と私は静かに独り言を言った。スラヴ語のひとつを研究する学生たちの関心は平均以上だった。会合の使用言語は日本語だったことを付け加えておかなければならない。だから私には問題だった。札幌でも同じだった。一番大きなスラヴ語研究会の関心ははっきりしていた。私は審査員と聴講生の数を35人まで数えたが、あとは数え違えてしまっただろう。研究はロシアの文化的社会的特殊性と同様に過去の歴史と文学の分野が目立っていた。言語を扱うだけの言語学は、他の言語現象の部分として発表されただけだった。 30年前に数学から言語学に切り換える決心をしたスロヴェニア人とスロヴェニアの首都、リュブリャナからやってきた日本人の学者と会うのは楽しいことだった。私たちの話題は専らリュブリャナ大学哲学部の日本学の長をめぐる話だったが、それは過去の経験、研究業績、将来計画についての意見交換だったのだ。言語学の普遍的理論をずっと持ち続ける必要性と同じく自国でのスロヴェニア語研究の立場のことなどであった。また、その分野は海外の教育とも密接に結び付いている。私たちの議論もまた、ヨーロッパのスラヴ語学の出来事、もちろん日本のその分野の研究の現状にも及んだ。参加者は多くはフランス人とドイツ人がほとんどのヨーロッパ人でスラヴ系は二人だった。はっきりしていたことだが、主催者側が私たち外国人をどう理解し新しい研究環境とどう対処しているかの問題やまた一方で、日本人が私たち外国人を受け入れることをどう感じているかの問題にすごく微妙に接していたことだ。私たちは特別発表を許された。それは西洋と日本の関係史の類いだ。厳しい評価と特定な候補者選びの過程が再度大方説明されたが、それは私の日本滞在を更に上げさせた。
 夕方懇親会があった。どんな外国人でも日本の土を踏み始めた後にちょっと感じる「カルチャーショック」の意味を日本人には分からない。また、私たち全ての外国人の研究者がそれを理解することはむつかしいのだ。それは意志疎通では何も産み出せないことと似ているが、言語の問題ではない。なぜなら、たいていの日本人は英語を話すし、たいていの外国人は日本語で意志疎通ができるからだ。多くの不思議な点を上げても終わりがないように思える。興味が尽きなく仰天するような建築、外国人には厳格で昔ながらの方法で接触してくること、伝統的なスタイルと西洋的なライフスタイルを混ぜた、ある種の旋律的な交換、生活空間に見られる清潔さ、技術の進歩それに交通の秩序と効率等々。それらは一見現実的でないように見えるけれども、確かに現実的なのだ。不幸にもこのような洞察力に満ちた夕べは私たちの前後に横たわる長い日々と比べると短いのだ。
(200813日 記)

 春だ。ついにだ! 長く寒い冬の後楽しい季節が巡ってきた。日本だけではなくヨーロッパも同様に息を吹き返すのだ。日本の春はどうだろう。ほとんど初めて見る桜の木は、川辺に沿って何キロも続いて他の木と寄り添いながら咲いている。生き物が息を飲んでいるシーンである。現代人は今尚自然と密接に関係している。それはすてきな市の公園にある視覚的にも嗅覚的にも目立っている植物でまた、数えきれない家々の前の鉢植えの植物なのだが、その臭いがガソリンの煙と混ざり合っているのだ。ここで物理学者のハイゼンブルグのことを考えた。彼はかつてこう言っていた。自然は知覚することではなく、人が自分自身のなかで知覚するイメージである。 
 私は新しいアパートに引っ越した。今は市の郊外にある大学の国際留学会館に住んでいる。京都の丘陵地は現在私のところから近く故郷のように感じるのだ。その故郷のマリボールにも私の家の窓の外に丘陵地が広がっている。アパートは誰もが分かるように本当に狭いのだ。私たち外国人は自分たちに合わせて多少広くしたりするが、スペースを変えても全て同じだとすぐ気付いてしまう。
 新しい住まいは前に住んでいたところよりも実質狭いが、駅の近くでも全く静かだ。だからここにすぐ決めた。ベランダがあって1階でしかも開放感があるところなら助かったが。  要するに、隣人とは反対に以前住んでいた悪い環境をたやすく忘れさせてくれる新しい住まいがいい。しかし健康的にはちょっと苦痛を感じさせる。どんな状況だろうが、新しいステップを踏んだ始まりと呼びたい。最も喜ばしいことはインターネットや電話が使えることだ。なるほど誰も尋ねて来ないが、私は現代的な便利さを感じている。 アパートの周りはもちろん全く違っている。大学と同じく市の中心部に近いが、私が住んで間もない区画は、特徴的な街と雑踏から引っ越した場所との間に一種の区切りがあるように見える。
 例えば、私は前回の記述では微笑んだ。ここの遊歩道は表面が平らなことからは程遠い。アスファルトは粗く私の靴では楽しめない。その靴は英国製だがこの辺を歩き回るには全く適さないのだ。私は緑が好きで空いた時間には堤防をよく散歩する。そうしていると故郷を思い出すのだが、マリボールと比べて川は多少小さい。4ヶ月経った今、私は街を図式化することを考えている。地図がひとつとそれにもうひとつは少しずつ経験しながら・・・。ともかく街を流れている川が全体でどう流れているのか私には理解できないのだ。少なくとも私にとって地域以上に興味あることは、散歩しながら美しい音楽を奏でる多くの若いミュージシャンがいることだ。私は彼らが演奏するヨーロッパのクラシック音楽を楽しんでいる。ヨーロッパと言えば、日本はヨーロッパ大陸からはかなり遠いが、ヨーロッパ大陸も日本からは遠いのだ。アメリカ(もちろんアメリカ合衆国だ)は地域の意味ではひとつの役割を演じているように見えるが、ライフスタイル、ファッション、ビジネスなどでははっきりとしている。私の仮説だが、外国からの訪問者が英語を話せばそれは間違いなくアメリカ人だ、ということだ。
 公共施設の看板を読むのを割り引いても他に興味あるものは、日本語でない看板は英語で書かれていてこれには驚いた。私はフランス語が話せる。このことは歴史とそれに横文字(ラテン文字で書かれていること)が注意をひきつけていることや広告用に使われていることで説明できるだろう。グローバリゼイション(国際化)とは英語や変化した日本人の認識方法と手を組むことである。街のポスター、品揃えの名前等々だが、ヨーロッパの現実はこれとは反対に英語の看板は私と同様時折古臭いのだ。
 日本人はヨーロッパでは自分たちのところから最良のものを取って来て、それを採用し改良する国民と見なされている。日本人の英語も、英語圏の文化(例えばインド)に影響を受けている国々が使用している英語とはかなり違っている。しかしながら日本での違いは音声的や音声学的だけではなく規則正しさにもあるという理由が特に際立っているのだ。多くの人たちがフランス語が分らなくても誰も困らないようだ。自分たちのルールがあるのだ。舶来もの(アメリカ人、フランス人、多分ドイツ人だが、ドイツ語は現実的ではない)は現代的でユニークでよく売れる。国際化や統合特に貿易の現代的な考えではそれらは全て現実的なものだ。そう、私は日本の製品によく見かける広告英語を見過ごすことができないにもかかわらずだ。こうしてかけ離れていることだけが残るのだ。

 私はオランダのチューリップの写真が入った実家からの荷物に驚いた。世界的に有名なチューリップだがもちろん日本の桜も有名だ。故郷には樹木園があるが、いろいろな花が陳列される市の公園では青空市が開かれる。手紙の結びで家の者たちが桜も自分たちの興味の対象とみしているから、日本固有の桜に大いに興味を示している。スロヴェニアの桜はこの時期白くて未熟だ。かたくて匂いも良い花びらは大きい。桜はいちごや黒いちごと同じくジューンフルーツと呼ばれている。
 自分たちの生活では予期せぬ楽しい経験をすることがよくある。日本の能楽堂の舞台稽古の時でもそうだった。その時は3人の外国人と一緒だった。専門的に舞台稽古を積んだ能楽師が所有している家で稽古が行われて以来、地方の個人宅を訪ねるのは初めてであった。前に言った舞台稽古は若い後継者が指導していた。私は多少能楽の知識は持っていた。もちろん私の研究からではないが、実際に見て経験することは本からだけの知識とはかけ離れて全く違っているのだ。足の動きと声の抑揚の稽古が2時間続いた後に、その能楽師は私たちをみんなで話し合う場に招いてくれた。彼は稽古舞台を楽しんだか私たち外国人には尋ねなかった。いや、彼は変な外国人の私たちに特別1時間あまり声を出して唄ったり舞台周りを実演してくれたりして私たちの質問に敢えて答えてくれたのだった。彼はシェークスピアの時代遥か前にこの古い能楽の非情な特徴を私が指摘した意味が妥当だと言ってくれたので、私はゼミの優秀な学生の気分になったような気がした。長い間経験したことがなかったことでまた、ユニークで独創的なものを知った機会だった。私たちは多少疲れた様子の能楽師に丁寧にお礼を言った。ところで、能舞台稽古についての会話を夢中で楽しんだすぐあとだった。私たちはその能楽師の最低限のことだけ語る言葉に圧倒され狂喜したのだ。

 どこの出身地だろうが、私たちは4月の天気が気まぐれで予測できないと考えがちだ。この地域でも同じだと思う。京都の空は大変美しく青いに違いないがまた、太陽が世界を照らす光線を遮って鉛色でどんよりとしたたくさんの雲に覆われることもあるのだ。時折日単位で降る雨の場合には、「英国の気候と似て全ては明白すぎる」とひそかに考えることにしている。島国生活だと考えて他にもたくさんの似たような現象があることには言及しないでおこう。
 しかしながら、この話は別の機会に・・・。(後編終了)200816

スロヴェニア人の言語学者ウヌク・ドラゴ氏(年令40歳代後半)が第二外国語の一つである英語で書いたエッセー、『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』を携帯電話の機能を使って主に通勤電車の中や空いている時間でやっと訳了した。英文原稿は8500語くらいだが、日本語訳では400字詰原稿用紙で約55枚もある。39回連載で延べ約92時間以上かかった計算だ。次に若干の訳者あとがきを記そう。 これは全く一個人がボランティアでした仕事である。それにしてもその原作者の"見者の精神"には目を見張るものがある。よく観察していて、亡くなった小田実の名著『何でも見てやろう』の精神に通じるものがある。また、初めての東洋の国日本の古都・京都の街の晩秋から春先にかけての日常を正直に自分の眼で確かめながら書いている。ここには小国だがヨーロッパ大陸の精神を受け継いだ人の醒めた言辞が心地よい言葉、何と言った良いか、そう、"歩き言葉"で書かれていてその好奇心の塊を訳者は思った。
 英文はその語彙そのフレーズそしてその構造にイギリス英語の匂いがぷんぷんしていて、些かアメリカ英語に慣れた訳者は多少の確認が必要だったことを素直に認めたい。と同時に、シンタックスにおいてはドイツ語の影響なども多少見られた。また、知覚動詞、助動詞、接続詞などの使い方と分詞構文、関係代名詞の使い方などにも、これは言語に敏感な言語学者の文章だから当然と言えば当然だが厳密的な反映があった。その点日本語は主体中心の言語世界を形成する言葉かも知れないが、ともかく曖昧な言葉のようだ。かつて毎日新聞の余禄欄だったと思うが、文豪・川端康成はその小説で確か「おもう」という言葉が10通り以上の意味をただひとつで書き分けていて(但しその前後関係の状況語がその語の意味を決定していることがしばしば見られる)、最近亡くなった翻訳家・サイデンステッカー氏を悩ましたと書いていたが、その逆はこのエッセーにも現れていた。

 果たして誤訳は起こりえるか。この問題は翻訳は裏切り者や腹話術に似ているとか、直訳、意訳、創訳とこの分野で語られている夥しい本や雑誌それに論文があるが、最近では『星の王子様』の訳例が象徴的だが、文化の翻訳と厳密な訳業が求められて当然だろう(オリジナル文は普通は翻訳者自身は書いていないのは自明なのだから)。最後的には原著者の魂が乗り移るくらいの訳ができたら本望だ。それまでは日々葛藤の連続と勉強の日々が続き終わりはないのである。ま、言語感覚、センスというものもあるが・・・。ということで、筆者も誤りは見つけ次第訂正することでご勘弁願いたい。続きはまたあとで。
  筆者はこのスロヴェニア人の言語学者ドラゴ・ウヌク氏が書いた『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』のエッセーを一読してまず異文化交流・接触のある感慨を覚えた。それは遠い昔、12歳の小学6年生の自分にフラッシュバックさせた。小学校の2階の端にあった図書館の確かレファレンスコーナーか語学の棚にさり気なく置かれていたドイツ語の本との出会いが筆者の異文化、当時は外国語体験だった。その不思議な文字に夢中になり、舌足らずの若くて背の小さな女性司書に質問を浴びせて困らせたことを今でも昨日のように鮮やかに覚えている。それほど異文化に接触することの興味が強かったと言えるだろう。
 さて、話はスロヴェニア人の日本印象記だ。晩秋の日本に降り立った著者は(その冬は特に寒波襲来もあって日本も寒かったけれども)、大学が提供した会館に住むがその住まいの設備が悪いのを嘆いている。もともとセントラルヒーティグ等の暖房設備は日本家屋の性質上あまり普及していない。コンパクトな暖房設備が普通だ。このことに関しては筆者のニューヨーク滞在時に会ったある中年の女性の言葉が印象的だった。

「日本の冬は寒いので帰る気になれないわ」

「どうして」

「ねぇ、家の中に風が入ってスースーするでしょ」

「それで・・・」

「その点こちらは青森と緯度が同じぐらいでも家の中は暖かいもの」

「・・・」

「セントラルヒーティグのおかげよ」

 日本人の礼儀正しさや親切さに触れて(これは多くの外国人が指摘していることだが)、日本人を褒めてはいるが多少の皮肉も含まれているようだ。この点については土井健郎著『甘えの構造』やルース・ベネディクト著『菊と刀』、最近ある先生から教えられた『アメリカの鏡』(手元に本がないので著者名は失念)などを読んでみると大いに参考になるだろう。土井健郎の『甘えの構造』は英文版もある。スロヴェニア人の著者は路上に出て京都の街を探索する。交通事情、自動車やバイクに言及し、新聞を読んでは、たまたま起こった凶悪な犯罪事件に暴力が多く描かれているアニメやコミックの影響を読み取る。また、路上であった親子連れの“ガイジン”に向けた子どもの視線の話、冬の寒い日での屋外児童演奏会出席と感動、クリスマスと正月、初詣のやや冷やかな描写と自分に起きた身辺雑記そして自分の専門分野の言語学のことや学会出席の印象や感想、日本人の英語のことを綴り、更に京都郊外に引っ越したことそしてそこが故郷マリボールに似ていることや能舞台を見学して能楽師に質問し褒められたことなどが事細かに描かれている。4月に入って第4回目の最後のエッセーでは、京都の土手に咲く桜のこと、スロヴェニアの実家から送られて来た荷物の話などが思いの丈書かれていて面白い。そして、最後は4月の日本の天候不順を嘆いている。そういう時には同じ島国生活のイギリスのことを思い出して慰めるとこのエッセーは結んでいる。

"The likeness to the weather in Britain is all too evident."

 そろそろこの訳者あとがきも終わりに近づいてきた。前に少し触れたヘレン・ミアーズ著伊藤延司訳『アメリカの鏡・日本』はGHQ最高司令官マッカーサーも翻訳出版を禁じた本だが、近代日本の行動原理を分析した優れた日本論だ。もうひとつ、ある新聞の書評子が取り上げていた一冊、デニス・キーン著『忘れられた国ニッポン』は、絶版で図書館から借り出したばかりの本だが、長年日本に住んで丸谷才一や北杜夫の翻訳を手掛けたイギリスの詩人で翻訳家の辛辣な日本文化論である。西洋化したニッポンは伝統を忘れていて危ない。宮沢賢治の詩は下手、太宰は大衆文学そして漱石と荷風を評価した後、「源氏物語」を持つ国、日本の精神生活を豊かにするには漢詩、和歌や俳句のアンソロジーを中学や高校でしっかり学ばせることだと提案している。批評する精神を養うことが大切と書いているのだ。辛辣かつ痛快。何れも1995年の出版、前者は2005年に角川新書に抄訳が入ったもの。その「源氏物語」は今年千年紀を迎え、京都を中心にいろいろな催しが大々的に開かれるらしい。やはりこの際通読してみたい。さて、原文か現代語訳か誰の訳で?それとも英訳―。 

 『スロヴェニア人が見た不思議な国・ニッポン』は京都を舞台にした現在の日本の様子を描いて異文化接触の格好な材料を提供してくれたばかりではなく、軽い読み物としても面白かった。